ゲッセマネの園で捕らえられたイエス様は幾つもの裁判にかけられました。人々はイエス様を十字架につけろと叫び、ローマの総督ピラトはその声に押し流されて十字架刑を下します。刑はゴルゴダの丘で行われ、両脇には犯罪人が同様につけられました。頭上には罪状書きが掲げられ、イエス様に関心を持つ人と無関心の人が大勢いました。
このイエス様の十字架は人の思惑によって起こされましたが、みことばの成就でした。神様は昔からこのことをご計画されていたのです。
イエス様は十字架上で二つのことを叫ばれました。「わたしは渇く」そして「完了した」です。イエス様は私達と同じ人として苦しみ、渇きを持ちました。そして、その後に全てを完了しました。これはこの出来事が終わったということではなく、罪に対する贖いと救いの完成がなされた、完了の意味です。
キリスト教はイエス様の十字架なしでは決してありえません。イエス様の十字架があってこそ全ての人の罪からの赦し、そして滅びからの救いなのです。